君が読まずに誰が読む!

でも嫌だという人は先にこちら。

Tシャツは二つある。といっても梅雨もあけた東京の夏をこれからたった二枚のTシャツで過ごそうというのではない。箪笥のTシャツを整理してみたら、デザイン、生地などどこをとってもTシャツとして認定できる立派なものがいくつかある。その一方で、貧乏旅行から持ち帰ったTシャツのように気に入ったデザインだがすり切れ状態だったり、逆に乳製品の販促でもらったTシャツのように造りはちゃんとしているがいくらなんでも外では着られなかったりして、ほとんど下着扱いを受けるみじめなものもある。

それはそうと。

医療ミスによって「ある時点から新しい記憶が蓄積できなくなった男性」をNHKがリポートしていた。7月18日の深夜のこと。
彼は日々の出来事を毎日いや毎時間ごとにきれいさっぱり忘れていく。繰り返し口にするのは「映像が全く浮かばない」である。一年前のことも、きのうの釣りのことも、さっきの買い物のこともである。それらしい記憶のかすかな断片だけはあって、そう聞かされればなんとなくそういうことがあったみたいだが、その時の様子を絵として頭に描こうとすると、全くお手上げなのだそうだ。
そんな彼に新しい子どもが生まれた。少しずつ大きくなるその子と彼は毎日充分に接している。しかし、その子が後ろを向いてしばらくすると、どんな顔だったかもうわからない。恐ろしい話である。ところが不思議なことに「なお」というその子の名前のほうはどうにかずっと記憶できている。
記憶には二つあるという。ひとつは学校で覚える漢字などの「学習や知識としての記憶」。もうひとつは、あの山へ登ったなあ、そのとき彼女はあんな顔してたっけ、というたぐいの記憶で、こっちは「エピソード記憶」と呼ばれるらしい。僕らはたとえたった一回しか体験しなかった登山でもそういう思い出はいつまでも鮮やかだ。人生を歩んでいる実感にはこのエピソード記憶が欠かせないという。しかしこのエピソード記憶は脳の働きとしてはいっそう複雑で仕組みはまだまだ解明されていないらしい。この男性が失ったのも、エピソード記憶だった。

これはこれで特別に興味深い内容だったが、さらにこの番組がきっかけで僕はあることを思い出した。それは、柄谷行人の文章がなぜあんなにわかりにくいかという謎である。 ちょっと試しに彼の文章をふたつほど読んでみてほしい。

共時性は同時性ではない。逆に、それは同時性という自然科学的概念、あるいはそれにもとづく歴史学的概念が隠蔽するものを明るみに出すためにとられたひとつの「態度変更」なのである。

はあ?って感じだろう。だれだってそう思う。最初はわかりにくく、続けてるともっとわかりにくく、最後までついにわかりにくい。
これは「内省と遡行」という文章のほんの一節だ。今読んでいる、というか読もうとしているのだが、図書の返却期限が来たから、もうあきらめた本だ。清水義範ではないのだから2週間では無理だ。
ついでにもうひとつ。

言語が最適な形式体系であるというような認識は「話す=聴く主体」によって体験された”意味”を、現象学的に還元して行くことで得られる。

もうやめる。頭が痛くなる。それが健康な身体の正常な反応というものだろう。こっちは「探求氈vと題された本から引いた。だいたいタイトルが味もそっけもない。まるで給食の食パンだ。
柄谷行人の対談以外の著作として初めて読んだのがこの「探求氈vだ。それを読みながら(とりあえず文字を追いながら、という意)ずっと「どうしてこんなにわかりにくいのか。僕がどう努力してもわかる段階に達するとはとうてい思えない。それはだいいちに僕の頭に知識や知能が欠けているからだろう。それでもこのわかりにくさは、なんというか、それだけとも思えない。こんなのがわかるという人の頭はいったいどうなってるんだ。」と感じていた。
そのとき僕は「探求氈vの文章と、たとえば次のような文章とは、なにかが決定的に違うのだと感じていた。つまり文章は二つある。

豪勢なフランス・ドラキュロワ社製のダブル・ベッドから錦紗(きんしゃ)のカーペットを敷きつめた床におり立ち、結城紬のガウンを着ながら金造はぼそりとつぶやいた。(筒井康隆「農協月へ行く」より)

断っておくが筒井文学を軽んじようなどというのではありません。たまたまそこにこの本があったからだ。だいいち、読みやすいことが文学の美質でなくてなんだ!(ホントいうと柄谷行人の方がどうかしてるのだ。)
で、この二つの文章を並べてみてわかるのは、筒井康隆の文章はもちろん難しい漢字はあるものの、読んだ瞬間なんらかのイメージが必ずわくということだ。 フランスといえば凱旋門あたりやワインの瓶なんかが浮かぶし、ダブルベッドはもちろん見たことがあるし、結城紬というと詳しくはないがまあだいたいの形や色合いが想像できるのだ。
かたや柄谷の方はどうだろう。共時性は同時性ではない・・え、共時性?まいいか。言語が最適な形式体系である・・言語というのはつまりこの言葉のことで、形式体系というからには形式の体系なんだろう、それが最適なわけか、なんのこっちゃ。こんな具合で、自分の体験あるいは映像に結びつけるのが著しく困難なのだ。柄谷の文章の難解さはそこに横たわるのではないか。

じゃ、そもそもイメージが浮かばないとはどういうことなんだろう。そう僕は思った。視覚的なものに結びつくことなしには、人は「わかる」ことが原理的にできないのだろうか。
そう仮定したうえでそれを実証するために、柄谷の文章を一部勝手に変えてみた。下の二例を読んでほしい。

Tシャツはアンダーシャツではない。逆に、それはアンダーシャツという素材のこだわり、あるいはそれにもとづく使い方のこだわりが隠蔽するものを明るみに出すためにとられたひとつの「態度変更」である。

Tシャツが最適な夏着であるというような認識は「着る=見る主体」によって体験された”ファッション”を、現象学的に還元して行くことで得られる。

今度はTシャツや夏の街などが頭に浮かんでくるだろう。確かにこれでなんとなく読みやすくはなった。ところがこの文章、かみくだいて説明しろと言われると実は意味不明に近い。つまり、いかにもわかりやすそうではあるものの結局わからないところは前と同じなのだ。

だから、さらに考える。
柄谷の文章に「現象学的(に)還元」という字句がある。これは哲学を学んでいる人ならよく見聞きして馴染みのある術語なのではなかろうか。フッサールの現象学とかいう分野だ。そういう人ならここは容易に読めるだろう。ではそのとき、その人たちの頭の中で「現象学的還元」という言葉によってある一定の画像が引き出されているだろうか。たとえば、フランスという言葉でたいていの人が凱旋門とかアランドロンの顔とかを思い浮かべるように。いや違う。たぶん、画像としてなにかがくっきりと浮かんでいるわけではなかろう。仮に浮かんでいたとしても、人それぞれで全く別個のものを便宜的に浮かべているだけなのではないか。
これは僕らにとっては、上の柄谷の文章でいうと「自然科学」とか「歴史学」という字句とたぶん似ている。僕らはこの字句を「一応わかっている」という意識で読んでいるが、そのとき別にきちんと当てはまる画像を引き出しているのではない。もちろん高校時代の歴史の教科書なんかを思い浮かべたりしたとしても、それは補足的なものだ。

つまりここから導き出されるのは、なんと、柄谷行人の文章を凡人でもわかることができるという原理である。もちろん、そのとき柄谷行人がTシャツを着て笑っている画像があなたの頭に浮かんだとしても、それは無意味であるし、僕の責任でもない。

さてNHKのテレビに戻る。
新しい子どもの顔は浮かばないが「なお」という名前(つまり言葉)だけは記憶にとどめているという場面にきて、僕はこのことを思い出したのである。
柄谷行人の文章をわかるということは、子どもの顔は浮かばないが、名前の「なお」だけが浮かぶという現象に似ているのではないか、と。

最近ゲーデルの不完全性定理とかいうのをまた本でちらっと読んでみた。やはり難しい。この難しさが、なんだか、柄谷行人に似ている。もちろん彼がゲーデルについて詳しく書いているせいでもあろうが。そもそも現代数学の数式とかあるいは宇宙が曲線としてではなく4次元的に曲がっているんだとかいう話も、知覚つまり体験に結びつくイメージを浮かべることが基本的にできない。そういうやりかたで理解するのではない、別の「わかりかた」が要求されるのだ。

お疲れさまでした。整理体操もどうぞ。


Junky
1997.7.22

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